元禄市・吉良祭の日時と詳細。忠臣蔵の歴史を振り返り学ぶべきもの。

      2017/11/29

忠臣蔵

 元禄15年(1702年)12月14日、赤穂浪士47名が江戸郊外・本所の吉良邸に討ち入りました。歌舞伎の題材となり「忠臣蔵」として有名になったお話ですね。史実では「赤穂事件」と呼びます。

 昭和の時代までは、忠臣蔵と言えば「良い話・美談」とされていました。赤穂藩が正義で、吉良家が悪という構図で、四十七士はスター扱いでした。

 ところが、近年、史実が見直されるなかで、歴史的事実では「吉良上野介は必ずしも悪者ではなかったのではないか?」という見方をする人が増えてきています。

 そんな吉良家目線で、討ち入りにちなんで催されるのが、「吉良祭」です。同時開催される「元禄市」とあわせて、両国の年末の風物詩となっています。「吉良祭」と「元禄市」の詳細をみていきましょう。

吉良祭の日程と本所松坂町公園

 吉良祭は、2017年12月9日(土)・10日(日)9:00~17:00の日程で、JR両国駅東口から徒歩4分の本所松坂町公園で行われます。

 赤穂浪士の襲撃により命を落とした吉良公と、襲撃に立ち向かい倒れた吉良家の家臣20名を、偲んで催される小さな祭りです。

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 本所松坂町公園は、もともと吉良家の屋敷があった場所で、かつての吉良邸の80分の1ほどのスペースになります。吉良邸は討ち入り事件のあと取り壊されて、その跡に街が出来たのですが、近年、有志が吉良邸の跡地を買い戻して、墨田区に寄附して公園となったものです。

 旧吉良邸の一部を、往時を偲ばせるなまこ壁で囲ってあり、公園というよりは、史跡という感じに整備されています。

 公園内には、松坂稲荷大明神、吉良家家臣二十士の碑、吉良上野介像、みしるし洗いの井戸があり、壁には忠臣蔵関係の資料などが展示されています。ちなみに松坂稲荷大明神は、もともとこの近くにあったお稲荷様で、吉良公や忠臣蔵とは直接関係ありません。「みしるし洗いの井戸」は、打ち取った吉良公の首を赤穂浪士が洗った井戸とされています。

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吉良祭の内容は?

 さて、「吉良祭」の内容ですが、お祭りというよりは、吉良上野介義央公(こうづけのすけよしひさ)と20名の家臣にお参りをしましょうという主旨の、シンプルなものです。

 本所松坂町公園内の家臣の碑や吉良公の像の前にお供えものが置かれ、供養するものです。11日の午後には、ちょっとした式典があって、甘酒接待と樽酒のふるまいがあります。

 「吉良祭」じたいはちょっとした供養ですので、メインの見どころは、「吉良祭」に合わせて公園前の路上で開かれる「元禄市」となります。

 「元禄市」では両国小学校向かいの「吉良邸正門跡」から本所松坂町公園をはさんで「吉良邸裏門跡」までの東西134m、南北は63mの範囲、つまり、旧吉良邸があったスペースの路上に、約80店ほどの市が立ちます。

 露天は地元の町内会の飲食出店をはじめ、名物の「元禄そば」「ちゃんこ」などが人気のようです。

 また、露天には衣料品やアパレル小物の屋台が多いのですが、実は、両国には、ニットやアパレル関係のメーカーや問屋がたくさんあって、そういう企業も「地場産業」として出店をしているわけです。

 そんな元禄市で、隠れた人気がある楽しみが、元禄市限定のてぬぐいをゲットすること。吉良公の赤馬にちなんだものと、吉良邸のなまこ壁をデザインしたレアなものがあり、人気です。

いいかんじのてぬぐい買えた(>∀<)

aqui aquinbeさん(@aqui44)が投稿した写真 –

今年の元禄市で買った手拭いは吉良邸跡。

aqui aquinbeさん(@aqui44)が投稿した写真 –

 

 元禄市では余興も披露されます。

元禄市の余興(9日・10日両日)

・両国相撲甚句:12:30〜、14:30〜

・墨田区太鼓連盟:11:00〜、13:30〜、15:00〜

元禄市に合わせて開かれる茶会の由来

 また、元禄市にちなんで開かれる茶会があります。

 それは、山田宗徧(そうへん)流による、お茶会で、江戸東京博物館や回向院を会場にして、例年開催されています。

 討ち入りの当日、吉良邸では大規模な茶会が開かれることになっていて、その日が警護も緩むので討ち入りのチャンスとされました。

 山田宗徧は吉良公が門下に入っているお茶の先生だったのですが、赤穂浪士の大高源吾も山田宗徧流に入門して、何か情報がないか探っていたのです。大高源吾はそこで、「12月14日に吉良邸での茶会が開かれる」との情報を得て、その日に討ち入りが決行されることとなったわけです。

「赤穂事件」の真相と「忠臣蔵」のポピュリズムに学ぶ

 さて、吉良祭と元禄市は土日にあわせて9日10日の開催となりますが、12月14日には赤穂浪士がまつられている「泉岳寺」で、大規模な義士祭が行われます。泉岳寺の義士祭は本格的な四十七士の仮装行列などもおこなわれ、全国から忠臣蔵ファンが集まります。

 同じ12月14日には毎年、本所松坂町公園でも義士祭がシンプルに行われています。

 それにしても、いまだに盛大に「義士祭」が行われ、一方の「吉良祭」はこじんまりと密やかに行われている、そんなアンバランスな感じは否めません。

 「赤穂事件と忠臣蔵」の関係には、「一般ウケが良い話こそが、真実になる」という構図が見て取れますね。まさに、最近問題になっている「ポピュリズム」に通じるものを感じます。

 そもそも、忠臣蔵の話は、実際にあった「赤穂事件」を題材に、大幅に脚色を加えて、「仮名手本忠臣蔵」として浄瑠璃と歌舞伎の人気演目になったことで広まったものです。

 実際の史実はわかりませんが、最近では、どう考えても、吉良義央は別に悪くなかったのでは?という見方が優勢になっています。

 江戸城内で儀式や典礼をとりしきる「高家」という役職にあり五代将軍徳川綱吉からの信頼も厚かった吉良公。

 それに対して赤穂の若き藩主浅野長矩(ながのり)が、江戸城内の勤務として、朝廷使者との対応の役割を命じられたにもかかかわらず、本来、教えを請うべき相手である吉良公に逆ギレして暴力に訴えた・・・それが赤穂事件の概略です。

 赤穂浪士の討ち入りの事件は、当時の江戸庶民には「赤穂浪士は武士の鑑」的に好意的に受け入れられたようですが、将軍徳川綱吉は四七士にも切腹を命じます。江戸幕府の倫理観から言えば、四七士の討ち入りは許されるものではなかったのです。

 世間では、赤穂浪士の仇討ちの話がわかりやすいので、赤穂浪士はスター的な扱いで盛り上がっていたわけですが、綱吉は、暴力に訴えるのではなく、決まり事を重視して物事を解決していくという意味で、政治的に正しい判断をしたわけです。この価値観を守った裁量は、後世に高く評価されています。

 もし、この時、赤穂浪士がスター扱いで罪に問われることがなかったら、「暴力に訴える」ということが世間に広まって、江戸の平和は維持できなかったかもしれません。

 いつの時代も大衆はわかりやすいネタを好みます。為政者が大衆に迎合する「ポピュリズム」の風潮が広がり、そのことで政治の本質が見失なわれるのではないか?と懸念されている昨今、赤穂事件の史実に学ぶべきことがあるかもしれませんね。

 

 

 以上、吉良祭と元禄市について見てきました。

 吉良祭と元禄市は、規模も小さく、これといった派手な見どころがあるわけでもありません。ちょっとしたお祭りなのですが、歴史的な意義は大きいお祭りだといえましょう。

 吉良公や吉良の家臣20名は、ほんとうに命を落とす必要があったのだろうか? そんなこと考えつつ、ぜひ、お参りしてみてください。

 歴史や物事の評価というものは、一面だけを見たり、その場のノリで評価をしてしまっては、やっぱしいけないのだ、ということが感じられると思います。

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